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あたり前の人生を今振り返る。 [思い出日記]

生まれてから今まで何の悩みもなく

幸せ続きであったと言うような人は?

いるのだろうか?

おそらく程度の差はあったとしても、

幸せと不幸の間で、ある時には楽しく幸せで

またある時には苦しんで、

辛い日を送った日もあるでしょう。

お互いの仕事や人間関係の中でも

いつも順調だったり、

仲良く出来ていたりで、いい事ずくめだ、と

言う事などありえない。

何かをやろうとすれば

大概少なからずの壁や困難あるいは

失敗にぶつかる事は当たり前だし

どんなに親しい人との付き合いにも

時には不安や不満、

悩みや嫌気がさす事もあるだろう

愛しあっている夫婦でさえ、

時には意見の食い違いや不満が出てしまう事も?

でもお互いの人生!

私はそれが当たり前の姿だと思う!!(そこに、そんなに力を入れるのかよう/(-_-)\)

そのことを日頃、どれだけ自覚できているだろうか?

そうです、どんな学校でも職場でも社会でも

悩みや苦労があるのは当たり前!・・・・・・・・・・・。

ただ、

それらに押し流されず、

むしろそれらを自分を育ててくれる糧だと

自分に言い聞かせ、鍛える為の道具として

自分を伸ばしていくよう努めて行く。

そんな姿勢、生き方を貫いてこそ

誰を恨むこともなく

楽しみ苦しみが自分の血肉となって

よりユニークで豊かでゆとりある自分にしてくれるのです!!

と思います。m(_ _)m

新たな旅立ちを決心し、向かおうとする

不安で一杯の自分に

今こそ自信を持って

自分自身で明るく積極的な励ましを送って

自分を応援したい。

頑張れ私。



タグ:ゆとり 幸せ
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ペットと呼べない程の大きな土佐犬が逃げた。 [思い出日記]

 
土佐犬が逃げた

それは

小学校1年に、入学した頃のことです

記憶は、はっきりしています

実は、幼稚園に通っていた頃の事も

憶えているんです。

皆さんそうなのかな?

実は、もう少し前、

3~4歳の頃の事も少しは

記憶があるんですね。

ある朝、わずかな気配に

目が覚めたのですね。

おじいさんと、おばあさんが

何かお話しているのです。

「今日の会議には、つれて行けないから

こっそりと行くからたのむな」

「分ったわ、そっと行って下さいね。」

「聞いたじや、聞いたじゃおれも行く!」

と鳴き始める。

泣いたら、どうにもならんことを知っているおじいさんは

「分かった、分かった、連れて行く

連れて行く、婆さん早うして・・・」

と、金沢の組合の会議に、

一緒について行ったのです。

爺ちゃん子であった私は、

いつも、おじちゃん、おばあちゃんと

いっしょに寝ていたのですね。

会議場では、おとなしい者なのです。

そんな分別はあったようです。

会議が終わった後には、

皆さんとおよばれです。

それにはあまり興味が

なかったのか少し記憶が薄い。

先に爺ちゃんと大浴場へ行った時に見た

大きな土佐犬か秋田犬か見たこともない

檻に入った大きな犬

これが気になってしかたがない、

こっそりと旅館の中を探索を始める

檻の前に行って見ると

戸が空いていて、犬がいないのです

びっくりして爺ちゃんの所へすっ飛んで行って

「爺ちゃん!!犬逃げた!!」と大騒ぎ

後で、分かったのですが、

毎日のお散歩に、出ていたようですね、(笑い)

そんな幸せな幼い頃の思い出も大切に

思い出すのもいいものです。

幸せです

生かされていることに感謝して

今日も過ごしましょう

それではまた明日。
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タグ:ペット

遺伝子の不思議を信じる [思い出日記]

椿 明山です

日頃の何か面白い出来事や、思い出や物語などを
そこはかとなく、書き綴っていきます。

椿の{日記 思い出 物語}です。
です

遺伝子

人間の体は多くの細胞から創られていて
その1つ1つの細胞には、膨大な遺伝子の暗号が
刻まれているそうですね。

世界では、もう、人の全暗号がほとんどが解き明かされていて
生命の基本的な設計図の全容が解っていると言うのです。

遺伝子の物語が解明されているのです。

科学者、医学者は凄いですね、
彼らの脳細胞は一体どうなっているのでしょうか
どんな事になっているのでしょうか?

実は私自身も、どうなっているのかは解りませんが、
自分の中の暗号が、信号が働いたな、と思う事が時々あります。

スイーツ等の新商品を考えつく時などもそうだと思うのですが、

テレパシー

例えば以前こんな事がありました。

ある日ちょっと用事があり自動車で街に出ました。
すると、前方から遠目に、高校時代に好きで付き合っていた
あの人が、歩いて来る、と思ったのです。

しかし、近くに来たとき、その人では、なかったのです。

違っていたなと思って、少し進むと、今度は20~30人の
ちっちゃな園児達が歩いて来ました。

可愛いので少しスピードをゆるめて、子供達を見ながら進んで行きました。

何と!・・・何と!!! その園児達を引率していたのは、はたして、
彼女だったのです。ああ~懐かしい。

高校時代にお付き合いをしていたあの人だったのです。

そうです、あるのです

その後もそのような経験は、ふしぎな出会い等がありました。

またそう言う事とは違う事でもたびたびあります。

皆さん方も考えてごらんになれば、いろいろな経験があると思いますよ。

ですから、私は、そう言う不思議な、暗号があるいはテレパシーが
人間には、あるのだ、働くのだと思っています。

反省と決意

人間の強さ、弱さ、欲望、善悪、そんな遺伝子がびっちり詰まった
私なのだと思いながら、今後の自分の人生を、

しっかり歩んで行かなければと思うのです。

それでは、きょうは、この辺で、失礼致します。

国家検定 洋菓子1級技能士合格の思い出 [思い出日記]

椿です

あんまり暑いので、ある寒い冬にあったお話です。

洋菓子、国家検定1級技能士、検定合格

スイーツを目指す者が憧れる資格制度です。

確か3級は3年以上、2級は5年以上、

1級は10年以上の経験が、受験資格となります。 

それぞれに、実技試験、と学科試験があります。

当時の1級の学科試験は大変難しいものでした。

食品関係、衛生管理、電気関係、洋菓子、和菓子、パン関係

その他の関係と多岐にわたる問題が150項目程、出題され

合格ラインは80点、しかも正解が120問(80点)不正解が30問(-20点)だとすると

差し引き(60点)と言う成績になり、不合格となります。(厳しいですよね)

人の口に入る物、そして人の命を預かる者、としての

心得、常識、技術を試験するのだと。・・・

2月の雪深い朝、5時金沢の会場へ車で向かう、

何とか間に合い(昨年は雪に負けて失格!)

会場に入る。


会場は、熱気気迫に満ちあふれていておじょんだ

他業種の受験生も多くいるので大きな会場もいっぱいです。

その資格制度は2~3年前からできたもので、

洋菓子の受験者も合わせて30人以上、はいたと思います。

やがて2時間の試験が始まり。1時間が過ぎた頃から

1人出て行く、また1人とザワつき始め、中々集中できなくなりました。

私も自信のある問題は書いてしまっていたのですが、

ここからが勝負!と決め、2回、3回と読み直していたのです。

深呼吸をして、静かになるのを待ちました。

やがて洋菓子の部門の受験生は、私1人になっていたのです。

時間が来るまで、会場にいたのは3分の1程でしょうか?

金沢の人気のお店のオーナーシエフ達も何人もいたのですが

2年目にして勝ち取った栄冠

まだ雪が残る3月、忙しくなり始めて来た頃

国家検定合格者の発表が新聞に載ったのです。

1級技能士。合格!!私の名前だけが載っていたのです。

その他2級3級も何人かは合格してはいたのですが。

1級合格は私だけでした。やった!!と思いました。

私には時々、自慢をする癖があるそうです。

時々家内にやられます。

でもいいじゃないですか、そんな男なのですから

誰にでも欠点はあります。その欠点を、

無理やり直そうとすれば、良い所もなくなってしまって、

自信のない静かな男になってしまったなんて事もあるかもしれない。

それよりも、自分の良いところをもっと磨いていくと、いいのじゃないかと

勝手に思っています。ストレスはありません。

本日はこれまでです。

またあした。

目標!!常に笑顔を、心に愛を、余裕を持ちましょう。 [思い出日記]

綺麗な講師

小学校に何かのイベントが、あった時、

小学校の卒業生の若い女性の講師が講演に立った。

彼女は、今は人助けのボランテイアのような事をしているのだが。
どうして講師に選ばれたのかは分からない。

この話は、私の長女から聞いた話です。
当時娘には3年生と1年生の娘が小学校に通っていた関係で

いじめられた4~5年生の頃

その講演を聞くことになったのです。
大勢の子供たちと、父兄の前に立ち、

学校における色々な出来事や、
子供たちの遊びなどについて触れ、

そして5年生の頃に自分が皆に、
いじめられていた事へと話が及ぶ、

意地悪なことを言われる、
無視される、取り囲んで、小突かれる、等
事あるごとにいじめられて死にたいと思って
電車の線路を歩いた事もあったそうです。

誰にでもやさしい学校1水泳の上手な男の子実は野球部

そんな時、常に気を配ってくれる一人の男子生徒がいたそうです。

囲まれているのを見つけると、「おまえら、何やってだ!!」
と蹴散らしてくれる。

それが気に入らなくて余計にいじめられた可能性もある。

先生が気づき始めてアンケートを取ったそうです。
女子のほとんどは、白紙を出したと言うのです。

少しの子供たちは「何もありません」男子も大体そのような感じだったのです。

ただひとり「がまんが出来ません、何とかしてやって下さい、見ていられません」と
激しく書いた男子がいたと、

その結果を先生が皆に話していじめをやめるようにとお願いしてくれて、
私は助かったのだと話したと言うのです。

もちろん自分にも悪い所があったからそんないじめにあったのでしょうが、
お互い反省すべきは反省し、改めるべきは改めると言う気持ちを持って、

優しい気持ちで、皆仲良くし合って勉強をして下さいと、

そして父兄の方にも我が子は一番大事でしょうが、
人様の子もその次に大事な自分の子供だと思って指導して下さい。
とお願いしたという。

話の途中で涙する人もいたと言う。

講演が終わり、お片付けのお手伝いをしていると、
弟の同級生である、親しいその講師が長女に近づいてきて、

挨拶をして「今日のお話は、弟さんのお話でした。
今日初めて話させて頂きました。
私はあなたの弟さんに助けられていたのです。
ありがとうございました。」 と言われたのです。

近くにいて、親しくしていながら始めて聞くその話に
びっくりしたと、私に話したのです。

親ばか父親の涙

その話を東京にいる息子にすると
「そんな事あったかな~わすれたな~」と認めなかった。

いい男だね~誇りに思うよキャプテン。

定年までと言わずに帰って来て欲しい。

心の安らぎは深呼吸

人の心の安らぎは、ちょっとした心の向き(角度)を変える事によって、
余裕が生まれ勇気が出るものなのです(経験者)。

私は何事にも、こう思う事にしているんです。
「人がなに事いっても、関係ない自分の事は自分で決める」

ある意味、軽い開き直りのようにも感じるかもしれませんが、
そんな強いものではないんです。

人間は何の為に生まれてきたの?と言う事ですね。
深呼吸をしながら、それを突き詰めていくと。

心に余裕、が自然に出てくるのですね。

やってみてください。

また明日。

高校入試への激しい思いと、野球、諦めからの立ち直り [思い出日記]

椿です

勝負する事を決める

息子は、3年生最後の、春の野球大会に優勝し、

肘の手術も成功して元気を取り戻した。

そして「医者になる!」とまで言った息子だったが、

担任の先生から呼び出しを頂き

今の成績じゃ志望校への合格は難しいぞ!」と

言われてしまったのである。

びっくり、ショックだった息子は、

夏休みに勝負を賭けることを、決めるのだった。

大好きな友達から逃げ回る

当時私達家族は、母と(息子のお祖母さん)

別べつに暮らしていたのだが、

息子に私達が、一言もどうこう言った事もないのに、

自ら「お祖母ちゃんの所へ行く!」と言って、

勉強する環境を変えたのである。

そして彼の入試に対する猛勉強が始まったのである。

母の話によると、息子は朝早くから朝食に呼ばれるまで机にむかい、

歯を磨いて又、机にむかう。

すると、野球部がやって来て遊びの誘い、

日が暮れて、帰って来て夕食を食べて、また勉強。

次の日も又野球部がやって来て遊びの誘い

考えた。彼は、勉強する場を公民図書館に変えるのである。

しばらく、は続くが、すぐに嗅ぎつけられるのだ、

そうすると今度は、お母さんの実家へ自転車で、・・・・また嗅ぎつけられて、

金沢のマンションに逃げこむ。

とうとう、車で2時間半離れた、大学に通う、姉さん達の住むマンションへ居候。

そこまでは追手もとどかず、何とか入試に望むことが出来たのである。

信じられない成績で合格!

良い成績で合格した事は言うまでもない。

と言うのは、事もあろうに、何と!仮入学の日、

息子の友達が学校の廊下で1枚、2枚の用紙を拾ったのだ、

それは、なんと、入学試験の成績順位表だったのです。

貴方ならどうします?・・・・・・彼は、家へ持ち帰り、

お母さんに見せました。

その同級生のお母さんは、あわてて、家内に見せたのです。

びっくりしたのです。

上から2番目に息子の名前が書いてあったのです。

あの劣等生が!。

その後成績表の事はどうしたのかは、知りません。

落とした先生は、さぞお困りになった事でしょうね。

教訓 やればできる。誰でもできる。やるかやらないか、それだけの話です。

できる!きっとできる!思い切ってやる!やるぞ!

さあまた明日

高校野球、球児憧れの甲子園への思いの挫折。思い出。(後編) [思い出日記]

椿です

セカンドがポジションになった。

中学生になった息子は、やはり、野球を選んだ。

小学生の頃、戦った同士が、チームメイトになった、仲良くなって、

いつも皆一緒だった、例によって球拾い片付けで、始まり、2年で代打要員、守備交代員。

3年になった時、ぽつんと「時々肘が痛い時がある」と言う。

そうか、疲れが出ているのだろうと言っていたのです。

早くに気づいてやれなかった情けない自分に腹が立ちます。

後から分かるのですが、肘の関節の間にかけた骨のかけらが挟まって、

瞬間、痛むのだそうです。

少しずつ、その頃には、甲子園の夢も彼の中では薄らえてきはじめていたのかも知れない。

そんな訳で、とてもピッチャーは務まらないのでセカンドが彼のポジションになりました。

幻の8番バッター

バッターも8番となり大した活躍模できなかったのかもしれません。

何しろ、試合を見に来るな、学校に来るな、と言うのでいつしか私も、

それをいい事にして、仕事に打ち込んでいたのです。

やがて、最後の夏の大会が始まろうとする寸前、

「お父さん、コーチに野球やめたいと言ってくれ。」と言うのです。

訳を聞くと、やはり肘が痛い時があって、

暴投をしてしまうので皆に迷惑をかけるから、と言うのです。・・・・

途中でやめると言った事のない男がよほどの事だろうと思って、

「分かったよ」と要件を引受て次の日、学校に出向きその旨を伝えたところ

「お話の意味は、分かりました、しかし彼は、意外性のバッタで

何故かチャンスが回って来て、そしてチャンスに強いので,大事な男なのです、

何とかこの県大会が終わる迄待って頂きたいのです、説得よろしくお願いします。」

と言うことで、認めてもらえなかったのです。

幻のバッター本領発揮

でも事の内容は、伝わったと言うことで、彼も思い直して頑張り始めました。

大会も順調に勝ち上がり順決勝戦です。0対0の緊迫したゲームです。

4回の表1アウトランナーなし、8番バッターの彼はセンターオーバーの2塁打で出塁、

9番バッターの正樹を待ちます。正樹はフルカウントから、思い切って引っ張った。

何と正樹は左中間の2塁打、そして意外性の8番バッタアーがホームベースを駆け抜けました。

1対0結局その1点を守りきって勝ったのです。

夢の県大会優勝!!

そして決勝戦これがまた凄い、0対0の5回1アウトランナー2塁、息子登場。

あえなく三振。2アウトそこからが凄い2塁打、2塁打、2塁打2塁打、2塁打、2塁打、2塁打、2塁打、     (8連続2塁打で8点)先取、またしても、息子に打順が回って来た。

ストライクバッターアウト。ひとりで1イニング2三振であった。前代未聞の恥だった。

あとで彼曰く、「人が打つ時には、僕はいいんだ!」だって、

県体優勝は40年ぶりの快挙だった。

県体優勝を果たした仲間とは今も仲がいい。

看護婦さんがどんなに優しかったのか?医者になると言う8番バッター

そして県立病院へ入院して、肘の手術を受けたのである。

先生は間違いなく小学校の時の傷であるとの診断であった。

傷は癒えて、退院して、「お父さん医者になる!」だと。力いっぱい反対した。

高校へ入学して、野球を諦め、やりたいバスケット部に入った。

この話の続きはまた明日。

ご機嫌よう。






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高校野球、球児憧れの甲子園への思いの挫折。思い出。(前編)2014-07-25 [思い出日記]

椿です



高校野球の予選も、もうすぐ決勝戦を向かえ

やがて球児憧れの甲子園が始まりますね。

地元の高校も3回戦まで進出、惜しくも破れましたが、

何しろ甲子園を目指す、強いチームが山ほどいるので、ままなりませんよね。

相撲をとっていた低学年時代3年連続学年優勝

私にも甲子園を目指して、頑張った息子がいます。

小学校1年2年生の頃は相撲の熱心な、コーチがいらっしゃて、

息子を勧誘して下さり相撲を練習していました。

もちろんその頃の校内相撲大会では、学年優勝、をしていました。

野球に変わった3年生の時にも校内相撲大会に優勝しました。

野球少年の現れ

小学校3年生のとき、少し色気ずいて、自分から野球をやりたいと言い出し、

やり始めたのでした。

最初は球拾いから始まり、それなりに色々勉強した事でしょう。

人数が少ないので、5年生になってレギュラーになり、サードのポジションを頂きましたが、

チームは中々常勝と言う訳にはいかず。優勝はできませんでした。

6年生になったばかりの春4月、早速、近くの小学校チームと練習試合。

ところが

ピッチャーの誕生

我がチームのピッチャーがストライクが入らない、

ボールホアの連発で押し出し、たまに入ると、ポカーンとヒットを打たれる。

たまり兼ねた監督は「ピッチャー交代!」サードの息子を指名したのです。

練習もした事がないピッチャー、投げ方もわからないまま、

ただキャッチャーめがけて投げるだけ。

それでもストライクが投げれる訳で、試合になってきたのです。・・・・・・・

その試合のあとの練習試合から、監督は息子をピッチャーと決め、

一人で投げる事になるのです。

優勝を目指して猛練習

それからは、私と朝早くに、グラウンドで、ピッチング練習を始めたのです。

いい球が投げられるようになって、練習試合にも、勝利が続き、

いよいよ大会が始まり、順調に勝ち進み、決勝戦です。

無念、涙の準優勝

今年こそ優勝出来るかと思いきや、

一点ずつ取られて、4対0もう最後の攻撃、

彼は、ライト前ヒットで出塁、2塁に盗塁、ワイルドピッチで進塁。

ぼてぼてゴロの隙に1点を入れたのでした。

4対1での敗退、その年は残念ながら、準優勝。

でも諦めない姿は見せてくれたのです。それが何よりの収穫だったと思います。

中学校へ進学

そして中学校に進むのです。

この続きは次のページで。

ご機嫌よう。

高校時代の同窓会 [思い出日記]

7月7日

高校時代の同窓会が、もう1ヶ月が過ぎてしまったのか。
月日の経つのは、あっと言う間ですね。先月の15日

近くの国民宿舎で、同窓会を開いた。何度も幹事会を開きながら
私達10人の幹事達は、とうとうその日を向かえたのです

私達幹事はどうして決まったのか知らないのです、
何故このメンバーなのか分からないのです。

なんとなく毎回もやってきた、思い出せば、色々な事があった
中には、喧嘩をしたやつもいた。やになった。

久しぶりに開いた同窓会の時には、皆それぞれに
席を立って出て歩いて話をするのに、あっと言う間に2時間が経って
会を閉める時、ほとんどに人が料理に手をつけていなかったと言う事もあった。

料理屋の人たちもびっくりされたと思う。
板前さんは、死ぬほどびっくりしたと思う。

余興も(カラオケ等)も用意していたが誰も歌わない。
司会の担当をしていた、しげお、もやることがない。

食べている、暇がないのだった。

そして場所を変えた2次回では
担当私は、同じくやることがなかった。
全員出席という凄さだった。

今回もまた、凄かったです。

開会の挨拶、が終わって、謡曲、そして
私の[春の海]。

もう、ざわついている。それは想定内の事だったから、
練習のつもりでやっているのでへっちゃらでした。

心の持ち方しだいで、どうにでもなるのです。
良い方に心を持って行けばいいのです。

むしろ上手にいつものように演奏できました。
でももうやらない。

宴もたけなわ、私もお話をしに回りました、

高校時代に彼女たちに、誘われてダブルデイトで
隣町の城址公園に行った事のあるその彼女、

Yさんに、ビールを次に行った際に
「今だから言えるけど、私、貴方が好きだったのよ、
他にも貴方を好きだった人が、何人もいたのよ」

おいおい!その時言ってくれよなあ!と言う感じでした。
私は、付録のつもりだったよ。

男子で警視にまでなっている男がいる。
1杯注ぎながら「立派になられたね~おめでとう。」

「お前のお陰や!おまえと遊んでいた時には
レコードも聞いたし、勉強もしたな、
良い遊びばっかりだった。

高校卒業する時には、俺は警察になるのか
ヤクザになるのか、と思っていたんだよ。

おれは弱い男だった。

その時、お前の顔が浮かんでな、
俺は警察に行く事をえらんだのだよ」

涙を浮かべながら、話してくれた、彼に本当に
おめでとうと言いたい。

思いがけない、言葉をいっぱい頂いた私には、
今までで最高の同窓会だった。

今度は2年後に決まった。

また明日。

遠い思い出 [思い出日記]

遠い思い出

小学校1年に、入学した頃の記憶は
はっきりしています。

実は、幼稚園に通っていた頃の事も憶えているんです。
皆さんそうなのかな?

実は、もう少し前、3~4歳の事も少しは、記憶があるんですね。
ある朝、わずかな気配に、目が覚めたのですね。

おじいさんと、おばあさんが何かお話しているのです。
「今日の会議には、つれて行けないからこっそりと行くからたのむな」
「分ったは、そっと行かしね。」

「聞いたじや、聞いたじゃおれも行く!」と鳴き始める。
泣いたら、どうにもならんことを知っているおじいさんは

「分かった、分かった、連れて行く,連れて行く、婆さん早うして・・・」
と、金沢の組合の会議に、一緒について行ったのです。

爺ちゃん子であった私は、いつも、おじちゃん、おばあちゃんと
いっしょに寝ていたのです。

会議場では、おとなしい者なのです。
そんな分別はあったそうです。

会議が終わった後には、皆さんとおよばれです。
それにはあまり興味がなかったのか少し記憶が薄い。

先に爺ちゃんと大浴場へ行った時に見た
大きな土佐犬か秋田犬か見たこともない
檻に入った大きな犬、これがきになってしかたがない、
こっそりと旅館の中を探索を始める檻の前に行って見ると

戸が空いていて、犬がいないのです。
びっくりして爺ちゃんの所へすっ飛んで行っ
て「爺ちゃん!!犬逃げた!!」と大騒ぎ

後で、分かったのですが、毎日のお散歩に、出ていたようですね、(笑い)

それではまた明日。

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